覚え書き
※宮司・大島が見聞きしてきたあれこれ、つらつら考えたことを、下手の横好きで勝手気ままに綴っております。不定期更新。拙文ご容赦ください。
2011年5月29日 映画「ミツバチの羽音と地球の回転」上映会 (江東区古石場文化センター) |
2011年5月10日 映画「100,000年後の安全」
フィンランドで建設されている放射性廃棄物最終処分施設をめぐるドキュメンタリー。 (渋谷・UPLINK FACTORY) |
2011年5月6日
「安部典子 “TIME LAG”- Linear- Actions Cutting Project
2011」 (SCAI THE BATHHOUSE) |
2011年5月5日
「田窪恭治展 風景芸術」 (東京都現代美術館) |
2011年5月3日
「オペラシアターこんにゃく座 オペラ「変身」」 終演後の林光×萩京子の対談では、この作品の生まれた経緯が語られ、興味深かった。 (渋谷区文化総合センター大和田・さくらホール) |
2011年1月23日
「パパ・タラフマラの白雪姫」
あまりにも有名な物語を扱いつつ、善悪、好悪、美醜、幸・不幸、敵・味方といった二項対立が基盤を失い、崩れ去っていくさまが描かれている、とみた。小人や追っ手の狩人までをもたぶらかす白雪姫。純潔・無垢と見えていた彼女が悪女の本性をあらわし、終幕の「乱痴気騒ぎ」のヒロインへと変容していく様子は、ベルリオーズの「幻想」の筋立てさえ髣髴とさせる。しかし、彼女の行動は、本人にしてみれば生きていくための方便、さらには闘いなのである。見方によって受け止め方は逆転する。ただし、白雪姫に純潔・無垢な像を期待するのは、既成の描き方にとらわれているからにほかならない。
たとえば「魔笛」における夜の女王の二面性はしばしば論じられるところである。が、リンゴの皮を剥くように、既成の枠を取り去ってみると、「白雪姫」のような有名な物語の内部にも無数の可能世界が含まれている。そんなことを感じながら楽しむことができた。
最小人数に絞られた出演者たちが切れのよい踊りを見せ、歌を聞かせる。音楽も、一つの事物の二面性・多層性を象徴するかのように、静かな層の上に、誇張された明るさの層が重なる場面がしばしば見られ、興味深かった。
来年、パパ・タラフマラは30周年を迎えるという。わたくし自身は不真面目な観衆で、以前公演を観て以来10年以上経ってしまった。追いかけてこなかったことが惜しまれる。今後は見逃すまい。 (池袋 あうるすぽっと) |
2011年1月22日
映画「ハーブ・アンド・ドロシー」
夫妻は若い頃、仕事の傍ら美術大学のクラスに通い、美術家を目指していたという。おそらく、創作への想いは極めて強く、稀代のコレクターとして世に認められた今も変わらないのだろう。
しかし、二人の姿勢は、衒学的なものでは決してない。作品を、作家を、実に温かくいとおしむ眼差しで見守り続ける。一緒に暮らす猫や亀に対するのと同じように。コレクションをギャラリーに寄贈して、まるで我が子を大学まで通わせたように(夫妻には残念ながら子どもがいない)、ほっとしたと語る姿が印象的だった。 (渋谷 イメージフォーラム・シアター) |
2010年11月6日 「ブラヴィッシーモ!」 |
2010年10月31日 TOKYO DESIGNERS WEEK 2010
(明治神宮外苑絵画館前) |
2010年10月24日 モーリス・ユトリロ展
ユトリロは若くして飲酒癖が始まり、精神病院に収容された。絵画は独学で、治療のために勧められて絵筆を執るようになったという。 (豊橋市美術博物館) |
2010年10月17日 エルデーディ弦楽四重奏団演奏会 (第一生命ホール) |
2010年10月15日 読売日本交響楽団 スクロヴァチェフスキ特別演奏会
[※明日も同じプログラムが予定されており、交替で家人が聴きにまいります。盛り返しに期待します。] (東京芸術劇場 大ホール) |
2010年10月11日 映画「幻風景」上映会
(鎌倉市生涯学習センター・ホール) |
2010年10月8日 「シャガール ロシア・アヴァンギャルドとの出会い」 (東京藝術大学大学美術館) |
2010年10月8日 「武満徹80歳バースデー・コンサート」 (東京オペラシティ・コンサートホール・タケミツ・メモリアル) |
2010年10月3日 「建築家 白井晟一 精神と空間」 (※建築には疎く、だいぶ前にワタリウム美術館でブルーノ・タウトを観た程度です。思い込み・勘違いなどあるのではと案じられますが、ご寛恕ください) 建築家自身による平面図、完成した建物の写真、新たに制作された建物の模型、書、さらには何人かの美術家によるオマージュによる構成。計画のみに終わった(実現の意図もなかったかと思われる)「原爆堂」関連の資料が展示の中央に据えられている。 偶然なのかもしれないが、平屋もしくは低層の作品が目立った。秋の宮村役場の模型などを見て、直観的に感じたのは、「風通しのよさ」である。ここで言いたいのは、もちろん、実際の換気のよさではない。より観念的な意味あいでの、「気」のようなものの流れのよさをこう呼んでみた。 白井が気学、風水学などを意識していたとは考えにくい。しかし、その土地の自然、そこに暮らす人々の営みを含めた風土、さらには土地のもつ霊的な作用を感じ取り、それに寄り添うようにして建築を構想していたのではないかと想像する。実際、この村役場建築に当たっても、地元の人々に対する温かい眼差しが自著のエッセイにつづられている。 秋の宮村役場などは、平面図を見ても、模型を見ても、実に風通しがよさそうな印象を強く受ける。「気」が通るとでもいうのだろうか、空気が淀まないつくりだと感じられるのである。 会場中央に置かれた「原爆堂」の展示を見ても、やはり、「風通しのよさ」が感じ取れる。本館(翼のような形状で、展示室の役目を持つ。やはり平面である)から、池の中に立つ堂をのぞむと、一種のヴィスタ(vista)的な効果があり、互いに独立した建物の間に濃密な、しかし互いに独立しあう関係性が生じている。 親和銀行のための一連の仕事は内部の写真で紹介されている。時代的な要素によるのかとも思うが、天井の高さが抑えられている。だが、それは圧迫感ではなく、そこに集う人の間に一種の親近感(intimacy)を生んでいる。わたくし自身が実際に訪れたことがある白井作品は渋谷の松濤美術館のみであるが、建物の感触を思い起こしてみると、やはりそのような intimacy というか、居心地のよさを感じたことが思い出される。この感触も、やはり「気」のようなもののもたらすところではないだろうか。 白井は若くしてドイツに留学し、哲学を学んでいる。遊学後、日本を「再発見」するという事例は多くあるのだろうが、白井の場合は単純な(と言っては失礼だが)日本、あるいは東洋への回帰といったものではなく、精神的にもっと深いところでの「悟り」だったのではないかと感じた。 (群馬県立近代美術館) |
2010年10月1日 『決定的瞬間』
何がそうさせたのだろうか。 |
2010年9月25日 「人はなぜアートを求めるのか」
なぜ人は音楽を聴き、絵を観るのだろう。 対象(人物でも、木でも)のたたずまいをキャンバスに描くにせよ、自分の内なる思いや印象を音でつづるにせよ、「表現」するとは作り手にとって世界がいかなる姿で立ち現われたかを、それぞれの媒体に映しとって示すことだ。
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2010年9月20日 telek_gift tour '10 (gift_lab) |
2010年9月16日 「期待」と「希望」
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2010年9月13日 「マン・レイ展 Man Ray Unconcerned but Not Indifferent」
(新国立美術館) |
2010年9月4日 谷郁雄×松浦弥太郎「暮らすこと、創作すること」
谷氏から、「骨董、やってるでしょう?」と図星をさされた。人を見る眼力が違う。きっちり叱っていただいた。恐れ入りました。心を入れ換えます。
(青山ブックセンター本店) |
2010年9月3日「没後25年 有元利夫展 天空の音楽」
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